昭和50年10月29日 久富家改式祭    (末永信太郎)    №50-134




 おかげで改式祭、(が?それから?)御霊様のご安心の本当の意味で頂けれる式が只今終わったわけです。こういう、例えば御霊様が安心して下さる、喜んで下さるようなお祭りをしたから、あの、おかげを頂くというのではなくて、そういう、その心がおかげを呼ぶ。これはね、あの、(     )。
 私は今日は、お風呂に入らせて、今、お風呂へ入ってから、まだ贈り名が頂いてなかったから、あの、思うともなしに贈り名のことを思わせてもらいよったら、久富、くは久留米の久、みは、この人偏にこう、(侍という字?)。それから、かは、中華民族の華。(久富久侍華?)。ひめは、(    )のひ、比例の比、めは女という、(久富久侍華比女之霊神?)という贈り名を頂いたが、それは、贈り名から言うとお徳を受けた御霊ということだと思うね。お徳を受ける、お徳を受ける、と。
 久しく、じんというのは、仁徳の仁です、徳の。ね。御霊ながらの、そのお徳。しかも、その華というのがね、まあ、素晴らしいと思うですね。何々の華、生花という、生花。その、御霊の華というですね。そういう、まあ、言うならば位に上られたという感じでしたが。
 いかに御霊様がお徳を受けられて、喜びの御霊としてこれからおかげを頂いて行かれると言うても、やはり遺族の者が助からなければ、御霊の喜びは、喜びにならない。ね。それで、私は思うのですが、例えばあの、四神様が十年間、教祖様の跡をお受けにになられて、ご用をなさった。
 そして、四十歳という若さでお国替えになられた。それこそ、二代の生神様と仰がれるほどしのお方が十年間の御神勤であり、御年はわずか四十歳という御年でお国替えになられた時、亡くなられた時に四神様が残しておられるお言葉の中に、ね、信心の家、信心を頂いておっても、ね、早死にをしたと世間の人から言われるのが口惜しいけれども、ね、後を見ておってくれと言われたんです。
 後々を見ておってくれ、と。まだ摂胤、いわゆる三代金光様。まだ年は13歳というお子さんですけれども、その摂胤様に後のことを、まあ、譲り渡されてお国替えになられて。そして、後を見ておってくれと言われた通りに、なら、三代金光様があのような素晴らしい御神徳に輝いた御一生を終わられて、そして、例えば、なるほど笑うた人があるかも知れん、とやこう言うた人があるかも知れんけれども、四神様が仰っておられたように、後が素晴らしい、やはりお徳だなというおかげになって現れておる。
 これは、まあ、私の方のことを言うてもです、私の方でも、まあ、言うなら一生懸命の信心をさせてもらって、人の目につくような信心もさせてもろうて、あれほど信心が続いておるのにも関わらず、ああいう難儀が続くということは、どうしたことだろうかと、皆も言うたであろう。また、笑うた人もあるかも知れん。けれども、なら、今日の合楽のごひれい、このおかげを思うと、なるほど、神様の御深慮の深さというものは分からない。私は今日、ご神前でお礼を申させてもらいよりましたら、あの、(げんていせいせき?)の中にありますね、あの、(なすのよういち?)が平家の船がこび出して来て、一本の竿の上に、その、センスを扇をこうやってね、開いて。しかも、(かんじょ?彼女?)が側に立って、こう手招きをする。
 こちらの方で、それを見ておった、(大儀?待機?)しておった源氏の侍たちが、あれをその、射てみよという事であろうというので、(なすのよういちが)選ばれて、あれを射落とすところがあります。もう、それこそ敵も見方も、ね、それこそ船べりを叩いて褒め称えたっち。
 見方の者も、その馬のくらを叩いて褒め称えたっち。そういう事跡がある、その情景を頂くんです。ね。これからの一心で、本当に扇の的を射落とすほどしのおかげを頂いた時に、今までどうか言いよった人、笑いよった人、悪口を言った人もです、もうそれこそ馬のくらを叩いて、船べりを叩いてね、(      )、金光様の信心っちゃ素晴らしいというような、私はことになるんじゃないかと思うんですよ。
 だから、そういうおかげを頂くためにはです、ね、いよいよ、んなら、扇の的を射らんならん時に、射損なわんで済むような一心の信心を本気でけいこさせて頂いとかなきゃならない。また、後を見ておってくれと四神様が仰った、その後の、んなら、者の信心がそれに続かなかったら、なら、今日の金光教はなかったように、ね、私はただ改式をしたからおかげを頂くのじゃない。
 改式をさせてもらう、その一心がおかげを呼ぶのである。また、これからの信心が、いよいよ御霊が贈り名の中にも現れておるように、徳の華とまで言われるようなおかげ。御霊の喜び、安心の御霊としておかげを頂いて行っても、後々の者が安心のおかげ、後々の者がおかげの花を咲かせないことには、本当に御霊様のお喜びにはならないと、私は思うんです。これからのね、一心の信心をさせて頂いて、それこそ、扇の的を射貫かせて頂くほどしのおかげを頂きたいもんですね。どうぞ。